「何をやりたいかとどう生きたいか」

会社を辞めると言ったら後輩に泣かれた。男だったんだけど、泣かれた。いやーそういう関係じゃないはずなんだけど泣かれました。(大事なことなんで3回言いました。)
全く予想外のリアクションについ、口をついてでたのが人生訓。

「人生とは何をやりたいか、どう生きたいか。この2つの変数で決まる。」

パッと思いついたから言ってみたんだけど、その後冷静になって考えてみたらこれは真理かもしれないという気がしてきている。人生におけるあらゆる選択には絶対的な正しさなんかは存在していなくて、常に「今までの選択肢」と「今ある選択肢」との比較感、つまり相対的に選択して人は生きているのだと思う。しかるに、一貫した人生(≒後悔しない人生)にはその優先順位の決定要因が必要であり、その決定要因をそれぞれが保持している、ということだけが絶対的に正しいことなんだろうと思う。

ふと思いつくと、僕は8年前に似たようなことをこのブログで言っている。http://d.hatena.ne.jp/dokodaka/20051212/p1 要はここで言うところのポリシーというものをもう少しブレイクダウンしてみると、「何をやりたいか」「どう生きたいか」。

自分は仕事にいきたくない、アフター5が大事なんだ。これは生き方 →選択→ 給料低いけど17時に帰れる仕事を選びました。
俺は映画を創りたいんだ、みんなをアッと言わせたいんだ。これは何をやりたいか →選択→ 不安定なフリーの映画監督になりました。

それぞれはそれぞれのポリシー(基準)で決定されているだけだ。いずれにせよそのポリシーが存在するのであれば(しかもそれが熟考の末ならば)、その選択肢は正しいのだと思う。人から見れば違和感のある選択肢もその人にはその人なりの要因がある。だからその選択はきっと正しいし、違う物差しを持っている他人が口を挟める領域ではないはずだ。もちろん、考えていないなら批判されてしかるべきだし、僕はそんな人見かけたら(しかもそれが僕の愛する後輩なのならば)重たい重たい説教をくらわしますよ。だってそれは絶対的に間違っているから。

もうひとつ、僕が大学生の時に思いついた方程式があります。これも僕は意外とあたっていると思っています。

y=a(x+b)

y=結果、x=努力、a=運、b=才能

どれだけ努力しても才能があっても運がなければ何にもならない/なれない。どれだけ運があっても努力もしておらず才能もなければ何も起きない。才能はスタートポイントが違うだけであって努力で挽回可能なものもある。しかし努力できる時間は有限であり平等であるから、時にbの値の差が大きいとxが限界値に達してそれ以上bの差を埋められなくなる。が故に努力量が一緒でもパフォーマンスに差が出る。

これらについてエッセイのご依頼があればコメント欄までご連絡ください。(金額応相談)
副業探し、という生き方。そういう生き方も、たしかにあるね。


(ここまでのはなしが台無し。)