クソな毎日を謳歌する

クソな毎日を過ごしている。いや、というより毎日がクソであるのだから毎日を過ごす限りクソである。特殊な話ではなくとてもとても一般的である。大人も子供もおねーちゃんもクソな毎日を過ごしている。当然僕もだ。

やりがいとか友達と話したりとかセックスしたりとかそれは一瞬の快楽ではあるけれども、儚く刹那的であって、クソであるのが普段である。クソであるからこそ快楽を快楽たらしめる理由である。しかもそのクソな割合は生きれば生きるほど増えていくというのである!

神はなんとも残酷な存在であろうか。神は全人間にクソな毎日を送ることを強要している。

クソな毎日から逃れるには毎日が毎日でなければよいわけだが(なんとも単純な論理展開であることにはついて謝罪申し上げたい)、毎日が毎日でなくなるには死しか道が残されていない。

思えばニーチェの言うところのニヒリズムはやはりニーチェも毎日がクソであることに気づいていたことに立脚するはずである。いや、むしろニーチェにとって毎日はクソでさえもないと言った方が妥当な気がする。

一方、毎日が楽しいと感じている人々も僕から見れば愚かだ。無知は幸せなりとはよく言ったものだが、毎日がクソであることに気づいていないのもやはり幸せだ。彼らはアダムの犯した罪にさえ気づいていないのである。いや、知恵の実を食べる前のアダムとでも言うべきか。

毎日がクソと感じなければクソであるはずのクソがその人にとってはクソがクソではなくなるわけで、ではその人にとってクソはなんであろう。ん?クソがクソでなければクソ、、え・・・?つまりクソだからこそのうんこ・・・えーっとなんだっけ?



ごめんなさい、なれない文章なんて書くもんじゃないですね。