2005年をふりかえってみるつもりになってみる。

気づけば12月31日で、部屋とか家とか自分とか全然掃除していない俺は全く年末の気分を味わっていないのですが、カレンダーの次のページがないのでやっぱり年末らしく、でもやはり自分の状況としては年末じゃないので、したがって今は年末じゃない。よって俺には新年も訪れないわけで、口が裂けても股が裂けても「あけましておめでとう」なんて明日言わないわけだ。

たくさんのめんどくささとたくさんの人とたくさんのハピネスに出会った2005年。中途半端であったことは否めないわけですが、それなりにやってやった感が自分の中にあるのがなぞ。完璧主義者としては(自分の作品公開1時間前に曲を差し替えたくらいの完璧主義者)2005年も消したいんですけど、それさえもめんどくさいわけでやはり2005年はめんどくさかった。

自分の中では今まで満足した1年というのを経験したことなくていつもどこかしら欠けている。まぁそういうもんだわな。

もちろんいいことがなかったわけじゃない。そりゃ毎年のことだけれど、やはりめんどくさい。たぶん世の中の全ての事象って言うのはめんどくさいことで、めんどくさいことを受け入れてこそ世界が見えてくる気がする。つまり、めんどくさいめんどくさい言ってるヤツが一番人生楽しんでると言えるかもしれない。

そこで思い出したのがパンドラの箱の話で、世の中に災厄をもたらしたけれど、最後には希望が残っていたという話。この話は至極全うで、たしかに災厄なんてなければ希望なんていらないわけですよ。

つまりめんどくない世の中なんて楽しみさえないってことです。基本的には何かをしようとすればそれだけ楽しみが増すけれどもめんどくささも増えるもんだ。でも自分の高校時代を思い返してみるとそうでもない気がしなくもない。

ここ最近続けて3回も高校の連中と、全員違うグループだけれど、飲み会をして思ったことは、自分が未だに高校時代に生きているということと、やはり高校時代が一番楽しかったし、めんどくさくなかったということ。美化してるだけならいいんだけれど、これが事実なら今はなんなんだという疑問もある。でも、まぁそれだけ世界が広がったんだろう。世界が広がればたぶん未知の可能性にもきっと出会える。めんどくさいけど。しかし世界がどんだけ広がろうと俺の中では高校時代が輝き続けるのであって、それは高校の友人たちと会うと復活するんだと思う。もう、輝くことはないのかなぁ。

15,6で人生が燃え尽きたとすればなんて早いんだと嘆く人もいるとは思うけれど、燃え尽きるだけの人生が送れただけで儲けモンだと思う。燃えられない人が多くいる中で燃えられただけで俺はなんて幸せなんだろう。でもあれ以上また燃えられたらもっと幸せかな。いつもう一回燃えるかわからんけど、諦めないでまた燃える時期が来るのをちょっと待ってみようと思う。

この広い世界の中で燃えるにはめんどくさいことにも心を開かなければならないんだろうか。もう一度燃えられるとしたらそのときなのかもしれないけれど、今年は十分にめんどくさいことに心を開いた気もする。おかげというかなんというかめんどくさかった、本当に。でも燃えてない。もっとめんどくさいことに心を開かなきゃいけないのかもしれない。

2005年はいろんな組織で上にいたり、下にいたり、末端にいたり、ちょっとはなれたところにいたりして組織のいろんな面を見てきました。そこでいろんな肩書きを持ってた。個人的にはそれを全て消したい。別になんか悪いことしたとか見返すとかそういうわけじゃなくて、むしろどれもが成功体験だったわけだけど、この汚名(終わった体験)を消さない限りは新たな高みに行けないのでもう忘れることにする。(だいたいがずっと残していくほどの成功でもなかったし、どの組織もクソだったのはたしかだ。)いつまでもその体験に付き合っていてもいいことはないし、ただ俺の名前を汚していくだけなのでね。あれはなかったんだ。何もなかったんだ。だから、来年こそは成功しなきゃいけないんだ。



しかしだからと言ってめんどくさい世の中につっこむ気は毛頭ない。


あけまして、おめでとう。