ミリオンダラー・ベイビーを見る。
どうしよう、なんて書いたらいいんだかわからない。
こんな映画初めてだ。
なんて書いたらいいのかわからないというか、はっきり言ってしまうと僕自身がこの映画の真意を完全に読み取れていないのかもしれない。とりあえず映画の話をしてしまおう。
個人的にクリント・イーストウッドは大嫌いだ。どうもあのもっさりした演出が嫌いなんだ。ミリオンダラー・ベイビーはでもたしかにイーストウッドの演出があってこその映画であるとも思う。ただひたすらに静かで、そしてポール・ハギスの見事な脚本の持つ静かなパワー(これは傑作クラッシュでも見られたが)を描くには最高だった。(でもポール・ハギスの演出の方が好きだけどね。ここはもう好みの世界だ。)
音楽は非常に面白くない。エモーショナルだったクラッシュとは違い、とても単純で無機質な音楽だ。イーストウッドもプロに任せるということを学んでほしい気がしなくもない。
ここに足を踏み入れようか入れまいかとても迷った。が、避けては通れないのでやはり書こうと思う。
脚本はクラッシュのポール・ハギスによるものだが、彼はなにげない会話に伏線をはさむのがとても巧い。ラストシーンではその伏線を思い出したときに、よくぞここまで考えたものだと鳥肌がたってしまった(正しい日本語では鳥肌がたつのは恐怖を感じた時らしいが、実際に鳥肌がたったのでしょうがない。)。
そして、ここまで重層的な物語をよくも破綻させずに保たせたものだと思う。この映画で追っているのはボクサーとトレーナーの二人だけだし、物語自体も彼らから軸がぶれることはない。だからクラッシュのように見た目からして重層的というわけではないが、しかしこの物語は単にボクサーのサクセスストーリーでも、ボクサーとトレーナーが心を通わせていく話でもない。そんなの見た目の物語にすぎない。この映画の真意はもっと奥底にある。ボクシングはたまたまその形ででてきたにすぎない。
モーガン・フリーマンは言う。ボクシングは尊厳を奪い合うスポーツである。イーストウッドは言う。ボクシングのルールは常に自分を守ることだ。しかしヒラリー・スワンクはイーストウッドの教えを守らなかった。モーガン・フリーマンはこうも言う。ボクサーは逆のことをすると。
ヒラリー・スワンクのかつての飼い犬を手にかけた親父は何を思ったのだろうか。歩けない犬を殺すのは尊厳を奪う行為なのか、それとも犬なりの尊厳を保たせる行為なのか。
間違いないのはヒラリー・スワンクはボクサーであったということだ。ただひたすらに。
ひとりの女性ボクサーの人生が、死生観まで考えさせる映画になったのは、イーストウッドの監督としての志の高さだろう。(Amazonのレヴュー)
わかってなさすぎて唖然とした。
と言いつつも、あと3回くらい見ないと結論を言えない気がしてきた。
『ミリオンダラー・ベイビー』
映画:★★★★☆
音楽:★★☆☆☆
以下採点不可能