崩壊が見えてきたね。

この季節は火事に用心だなんて、近所の暇人共が夜にせっせと外を回っている。火事は誰だって用心しているけれど、用心していても起きてしまうのが怖いところなわけで、あの人たちはいったい僕たちに何を強いているのだろうとここ最近頭を悩ます日々が続いている。


(・・・あれ、なんの話をしているんだ僕は。火事の話なんかは本題じゃない気がするけど、なんなんだろ。少し話を変えてみる。)


知り合いのブログを見ていたら僕はとんでもなく燃えたぎるものをそこに見てしまった。僕はそれを見て感動的に熱いなぁと思ったわけだけど、同時に寒気がでてきてしまったのも事実である。その人間に言わせれば冷めた俺はサイアクの人間なんだろうけど、しかし冷めてしまったのは紛れもなく事実でもしそれを批判されても僕としてはどうしようもない。この寒気を自分の生理現象とやらを解説するには時間と紙面が足りていないので残念ながらカットしてしまうけど、結局は僕は冷めた人間という説明もできるかもしれない。


(ここまで話を書いてみても僕の書きたいことは一向に形にならない。もう少し別の角度の話をしてみよう。)


こないだ僕にとって大切な友人でもある人間と二人で酒を交わした。そいつと二人で会うのは実は初めてだったりして、話が続かなかったらどうしようなんて思ったりもしたけどそれは杞憂だった。お互いの近況なんてものを報告したりしてとても楽しかったわけだ。そこで少し僕は思い出したことがあった。


火事と言えば、高校のころに地元の駅近くのマンションで火災があった。真っ黒に焦げたベランダは不気味な存在で、毎日高校に通う電車の中からそれを見ながら、やってしまったのね、、、と同情にも似た気持ちと、あぁ怖いな火事ってという他人事としか思っていないようななんともありがちな感想があったのを覚えている。


僕の大切な友人はあいも変わらず僕にひたすらに話をする。そして僕もひたすらに話をする。この関係はかつてと全く変わっていなくって僕は変わっていないなぁと思ってしまった。ただ変わってしまったこともあって、それは彼との立場上の関係のことだが、かつてあった上下関係というものがようやく撤廃されたことにある。


最初は感動と寒気が両立されたそのブログの感想であったが、冷静になって何度も読み返してみて僕は少し嫌悪感に似たものを感じ始めてしまった。いや、寒気そのものが嫌悪感の表象といえばそれまでだが、寒気は直感的な反応であるのに対し、嫌悪感はむしろ言葉にまとめられるくらいにそれを理解しているから起きるわけで、全く性格を異にするものだ。


その火事はそこそこに酷い火事だったようで、上下左右の部屋に燃え広がった後が生々しく残っていた。あれの補償はやっぱり火事を起こした人がするんだろうなぁなんてくうだらないことを考えながらも、火事は周りに影響を与えてしまうのが怖いなぁと思ってしまった。そして他人事ではないことに気付いた。つまり僕がどれだけ気をつけたって隣の人が火事を起こしてしまえば終わっちゃう。燃やされた立場にたって考えると、その火事に嫌悪感にも似た感情を得た。


その友人は僕に冷静であったと発言したが、僕は冷静と言うよりもあまり外に感情を出さない人間だったなぁと思い返した。感情を出さないというより僕は立場的に感情を露にしてはいけないし、そして上下関係が大嫌いだったから殊更考えがリベラルに見え、そしてそれが冷静という結論に至ったのではないかと今現在分析をしてみた。上下関係が撤廃されたのはむしろ僕の友人の方の心理現象であって、僕はもともと上下関係を気にする人間ではないし、そういう意味でも体育会的熱さを持ち合わせていない人間だったと説明することができるかもしれない。とは言うものの、僕だって熱くないわけじゃないわけじゃなくって時には熱くなって泣いてしまうこともチラホラある。


その嫌悪感は決して僕がそれをバカにしていたからではないし、こっちがものすごく冷めた視点でそれを見ていたからではない。はっきり言ってしまうと燃えたのは勝手なことであって、他に波及するのはとんだ迷惑だからだ。しかし、その迷惑は避けられたかと言えばもはや避けられるはずはない。そして、もう一つ。協同で何かしなければならないわけだけど、燃えてしまうと協同関係が崩れてしまうのも事実だ。マンションは協同生活みたいなもんだからね。マンション生活なんてのはお互いに信頼関係というか、これはしちゃいけなくね?なんていう暗黙の了解で可能になっていると言える。その暗黙の了解が破壊された光景を目の当たりにして僕は嫌悪感を感じたのかもしれない。


僕は自分で言うのもなんだがほとんどの場合制御されている。理性に。だからこそ冷たい人間だなんて思われることも多々あったりしてとんでもなく迷惑なわけだ。冷めている人間と、制御された人間が決定的に違うのは冷めた人間というのはどことなく厭世的な雰囲気をかもし出していることにある。彼らは決して熱くなって泣くことはないだろうし、怒ることもないだろうと思う。しかし、さっきも書いたけど僕は時として泣くし、そして怒る。ただ全ては感情に流されてるからではなく、いつでもそれをひっこめられるくらいに制御されている。僕は燃えているとき、ガスコンロのごとく制御されているのだ。


火事で全焼しちゃうと壊れちゃうわけで、その火事はこげる程度で終わっていたからマシなほうだったのかもしれない。そういえば江戸時代なんかじゃ火事が起こると、鎮火するんじゃなくて、隣の家をぶっ壊してたらしい。なるほどよく考えられてる。つまり、火事の火は人間の力でどうにもすることができないからそれ以上に被害が広まる前に、火が広がってしまう要因を取り払ってしまおうということだ。壊された方の気持ちが気になる。ただ一つたしかなのは、壊された方はたぶんとんでもない怒りを火事を起こした人間に持っていたに違いない。とんだ迷惑なのは今も昔も変わりない。


僕にとって、その熱い人間はもう対岸の人であることをふと思い出した。しかし嫌悪感をぬぐうことはできない。たしかに僕が嫌悪感を持とうと世界は周り、彼は燃え続ける。ただひたすらに。誰も手を触れられないくらいに。でも僕はそいつが嫌いじゃない。いやもっと深い関係を築いてみたいなんて昔から思っていた。それだけにこの嫌悪感がでているのかもしれない。しかし、僕は火事を前に手を縛られている存在にすぎないので見守ることしか出来ない。というより、見守るつもりしかもともとない。つまり自らで自らの手を縛っている。どうなるかしっかりと見届けたい。


僕はその友人とこれからも大切にその関係を築いていくつもりだ。彼はみんなとのコミュニケーションの間をつなぐ役割を受けたいと言っていた。そういえば、僕も勝手ながらそんな役割を自任していた時期もあったことをまた思い出した。がんばってほしい。僕は君を心の底から応援するし、いつでも君の味方だし、そして駆け込み寺だ。しかし覚悟してほしい。君は組織の潤滑油たるコミュニケーション役を引き受けるのならば時に問題箇所を冷静に処理するという残酷な役回りも引き受けなければならない。僕も何度か穏便な形で処理をしたことを少し思い出したが、辛い決断だったのであまり思い出したくないのが本当のところだ。でも、君ならできる。僕は君に期待するし、期待に応えられる人間であることは僕もよくわかっている。


火事のことを思い出しながら外を見やると、今日も近所の暇人共が火の用心と叫びながら道路を闊歩していた。今日も火事が起きませんように。