振り逃げとアクリル板と頭のよさと。

http://www.youtube.com/v/SiS2-t5s4ig

なんか、みんな東海大相模に対して悪い印象を持っているようなんだけど、まったく理解ができない。
横浜かわいそーとか、なんだかしらないけど横浜擁護してみたりだとか。

で、みんなの言いたいことってのはきっと、東海大相模のやり方が網を潜り抜けた、
というか、彼ら自身の「力」によって点をとったわけではなく、
棚から牡丹餅的な、一見“ズルい”点の取り方であったからではないかと思う。

しかし、東海大相模は何か悪いことをしたのか。いや、していないはず。
というのも、ルールのことは詳しくは知らないんだけれども、結局、審判が認めているので、
ルールから逸脱した行為をしていない=間違ったことはしていない、ってことなんだろうと思う。
批判されるべきはむしろ横浜の方で、あーアウトとれたとれたーと言って、
ルールを見逃してホームベンチに帰る方が悪い。


今日、ゼミの中間発表があって、そのあとOBも含めた飲み会があったので行ってみた。
OBの中に今年卒業した、僕の大好きな人がいたのでずっと話し込んでいた。
その人は一度企業に入ってから大学に戻ってきた人で、
実は既婚だったりするのだけれど、僕にとってはよいお姉さんのようなかんじで、
飲み会になるといつも議論をしている。
そこで今回話題になったのが「過程を評価するのは間違いではないか。」というお題。
小学校・中学校なんかでは、成績評価に「努力」という評価軸があるわけだけど、
その努力の評価は間違いなのではないか、ということ。
というのも努力をいくらしたからといって結果に現れない努力は無意味だからだ。
それでも努力を評価すると言うのであれば、
努力の質で評価すべきであって、努力の量で評価すべきではない。
で、結局努力の質は、結果に現れてくる一方、
第3者から努力の質は計りにくいので、やはり結果を評価すべきである、というわけ。

ここでひとつのたとえ話がでてくる。
動物番組でよくやる「犬の頭のよさ選手権」みたいな企画で、
犬の前に透明なアクリル板を置いて、で、板の向こうにエサを置いておく、という実験の話。
バカな犬はひたすらアクリル板に追突してがんばってるんだけどエサを取ることはできない、
一方頭のよい犬は迂回して簡単にエサを取ってしまうっていうあの実験。
簡単に言えば、体を使って汗をかいているのは前者の犬で、頭を使ってるのは後者の犬。

で、結局、なんで努力の評価がいけないかというと、
努力の何を評価しているのか、が不明確というか、的外れなためなわけ。
じゃあ現状何で評価しているかといえば、
その課題を解決するのにどれだけ時間をかけたか、ということなんだよね。
たとえば小学校・中学校では授業を一生懸命聞いて、
ノート完璧にとって、っていう行為そのものが評価されたりする。
で、僕は怠け者だったので、必死に授業聞いてるヤツのノート借りてコピって試験に備えていた。
ここで面白い現象があって、僕、その必死なヤツよりも点が高いんですよ。
じゃあどっちが先生から評価されているかというと、
僕の方・・・ではなく、必死に授業を聞いている彼の方。
もちろん自分の授業を聞いてくれているからっていう先生側の感情的な問題もあるんだろうけど、
でもそれ以上にどれだけ時間をかけたか、どれだけ苦労したか、どれだけがんばったか、
ということに評価の主眼が置かれているから。
簡単に言えば「汗水垂らした」ヤツの方がいい、というわけ。

しかし、だ。短時間で高得点を取るヤツと、長時間かけても点がとれないヤツ、
それでも長時間かけることを評価するべきなんだろうか。
よく僕が言うことなんだけど「苦労は買ってでもしろ。」というのは、
負け犬の遠吠えなんじゃないかって。
苦労なんてしないに越したことはなくて、むしろ苦労を避けて、
かつ苦労をした場合と同じ結果が得られるのであれば、
そりゃあ苦労しない方がいいでしょう、ということになりやしませんかね?
なんだか苦労をしない=ずる、という風潮があるのは本当におかしいと思う。
苦労は美徳か、時間をかければいいのか?
でもこれは、アクリル板にぶつかり続ける犬を評価することと同じであると、僕は思っている。

つまり、結果で評価するというのは頭のよさを評価することと同じことなのではないか。
本当の頭のよさ、というのはいかに効率的に物事をさばいていくか、ということであり、
体を動かす能力のことではないからである。
当然、ずるはよくない。でも常識を守り、かつ効率的な行動をとってよい結果が得られるのであれば、
それはやはりアクリル板にぶつかり続けている人よりも、評価するべきであろう、と僕は思う。






だからこそ僕は、東海大相模に大喝采を送りたいんだ。