トランスフォーマーを見る。

ヴァン・ヘルシングで書いたことの続きのようなイメージ。


はて、この映画にシナリオがどうたらと“批評”をしているのはどんな人なんでしょうか。
ただのアホでしょうか。
ただのアホだと思います。


なぜなら、それはあらかじめ分かりきったことを言っているだけなので、
たとえるなら赤色のiPodを注文しておいて
「なんで赤色なんだ!!ふざけるな!!」
と言っているのとまるっきり一緒だから。
そりゃ赤色のiPod注文すりゃ、赤色のものが届けられますわな。


つまり、だ、つまり。
マイケル・ベイっていうラベルが今回ついている。
さらに、MissionImpossible3をこけさせて、Aliasを終了に追い込んだ人が脚本を書いている。
これでシナリオに期待する方が間違っていて、
要は赤を注文しておいて赤以外の色を期待する方がおかしいし、
赤色が欲しくないなら赤色を注文しなきゃいいんですよ。
これでもし、そうだな、ポールハギスというラベルがついていたら、
いくらこういう映画に甘い僕だって、大激怒したと思う。
だって彼は赤じゃなくて青だから。
青色注文したのに、赤色が届けられたら、そりゃあ無類の赤色好きも怒ってしまう。
「今は赤色の気分じゃないんだ!!青色の気分なんだ!!!」ってね。

“良識のある”人が果たしてロンドンで演劇見ながら、ラスベガスを期待するんだろうか。
ディズニーランドのショーに、オペラ座の怪人の情緒を求めるんだろうか。

なぜラスベガスでミュージカルが受け入れられないか。
なぜミュージカル不毛の地と言われているのか。
ロンドンでは20年のロングランのオペラ座の怪人が、なぜラスベガスではコケているんだろうか。

僕?僕はこんなに良い赤色、今まで見たことなかったと思うよ。
あまりにきれいすぎて、表現できないくらいなんだ。
なぜって比較対象がないくらいに、だからこそ相対的にこの面白さを表現することができないんだ。

この時点で、デキが悪い、という評価に首をかしげざるを得ない。
なぜなら既に僕というデキがいいと思っている人がここに一人いるから。
つまり、デキが悪いなんてあなたが勝手にそう思ってるだけで、要は“嫌い”なだけじゃないかって。


嫌い、とデキが悪い。こう言われると区別しやすいんだけど、
“批評家”のみなさんはどうも混在してるんだよね。
小学生のころ、友達がこういってた「アボガドまずいだろ。」って。
小学生の僕はそのときどうも違和感を覚えた。
だってまずいもんなら売ってねーだろって。買う人もおるやんって。
そう、その子は単にアボガドが嫌いなだけで、
それをいっぱしに“まずい”なんて表現を使っていただけだった。
だってうまいと思う人がいるからアボガドは世界中に普及しているわけじゃないですか。

だからさ、よく言うことなんだけど素人の批評なんてのは(というより大方の批評家も含めて)
好き嫌いの範疇で物事を語っているだけで、
決してデキフデキの問題なんか論じてやいないんだよね。
たとえばパイレーツオブカリビアンなんかは、僕は世紀の大駄作だと思っているんだけど、
あれだけヒットしている。ってことは、だ。
みんなあーゆー映画が好きで、僕はたまたまあーゆー映画が嫌いだった、
それだけの話だった、のかもしれない。
まぁ、僕の論点としてはブラッカイマーっていうラベルがついてるのに
あれはねーだろっていう、冒頭のようなことで怒っているんだけど。

混在、ということを書いたけれども、
何を評価しようと結局最後に行き着くのは好みなのではないか、とも思っている。
これはアボガドみたいな浅いレベルで発生する問題というよりは、
とことんデキについて論じあったあとの、深いレベルでのお話。

例えばシナリオの詰めの甘さ、ある一定のレベルでの客観的評価は可能だとも思うけど、
最終的に
「この映画にとってこういうシナリオの詰めの甘さを良しとするかどうか」
は結局個人の好みによって判定されてしまう。
僕の場合「娯楽映画として条件が揃っていればシナリオの詰めの甘さもテーマの有無も関係ない。」
という評価軸、というか嗜好があるので、
僕の中ではこのトランスフォーマーは大傑作、と判定される。
一方でシナリオの詰めを傑作の必要条件にする人もいるわけで。
(ラベルが赤色だからシナリオの詰めへの期待値は最初から低く、
そもそも評価項目になかった、とも言える。)



というわけで何がいいたいかというと、トランスフォーマーは大傑作であって、
僕にとっては一生モノの映画ですよ、ってことだ。