マービン・バウワー著「The Will To Manage」

授業のために読んだこの本。読み進めてみるとなんと楽しいやら。そして巻末の出版年を見てびっくり。60年代に書かれた本とは到底思えない。この本はとてつもない先進性を持っていると言える。というより、邦題にもあるとおり、経営の本質は不変だと考えた方がいいのか。

詳しい内容はそんな時間があるなら寝たいので、省くけれど、著者の姿勢として最もわかりやすいのは「客観的(=科学的・論理的)」な根拠に組織経営の本質を求めている点だ。まったく俺の考えてきたことと一緒だ。

また、ポリシーを持て!!というのが俺の信条だが、やはり筆者もこの点を触れていて、経営の意思を持つことが最も重要と言っている。基本的にこの本は、経営の意思をどのように実際のアクションプランに落とし込むかということに注力されている。これは読む前にもわかることだ。なんでかって?−君は表題も読めないというのかね?・・・とこれは今回のエントリには関係ない。

この1年、組織運営というものに深く関わるようになって、自分の中での大きな取り決めごとの一つに「組織運営の欠陥は人ではなく構造である。」というものがあった。(規律であるという回答もあろうが、ボランティア組織であったので、規律はモチベーションを奪うと考えた。)つまり人のやる気だとかという目に見えない主観的なものではなく構造という目に見えてかつ客観的なものに原因を求めようとした。というのも、前者に原因を求めると、とかく何かの欠陥が発生したときにその原因を欠陥の張本人であるその人間に求めることになる。その人間だけをたたくことは一時的には有効かもしれないが、長期的に見ると何の意味も持たない上になんの解決にもなっていない。おそらくその人間はまたその失敗を繰り返すに違いないからであるし、きっとその人をそうさせた何かがその組織にはあるからだ。

もちろん、こうした欠陥を探す際に、たとえば思うような仕事の成果が上がっていない場合にその人のモチベーションのせいにし、ここまではよいのだが、その人になぜモチベーションがあがらないのかと説くのはとても単純で簡単なことだが、しかし、組織の運営を任されたものとして最悪の行為であると個人的には思う。組織運営者が自覚すべきこととして、構成員が理想通りのパフォーマンスを発揮していない場合に、その原因は自分にある可能性が高いということがある。さらに言うと、自分が作り出している構造だとか風土(この本で言えば“方針”である。トップが策定に深く関わるべきと書いてあった。あたりまえだ。)がその構成員のパフォーマンスを邪魔していると考えるべきだ。

こう考えた場合、解決策は怒るだとか激励だとかという前時代的なものではなく、近代的な手段をとることになるのは言うまでもないだろう。また近代的な手段をとったほうが、成功への公算を立てやすい。というのも精神論は単なる賭けにすぎないからである。それもリスキーな。

この考えは感情だとかそうした不安定で非科学的な議論を一蹴するほどの威力があると考える。最も単純かつ愚かな生徒会的*1な思考回路をしている連中にはまったく理解されないだろう。そして、このオチはなんとなく読めていたかもしれないが、俺以外の幹部にこの考えを徹底させようとしたがやはり不可能であった。なんと前時代的な組織であろうか!(他にも前時代的な面はあったが、それもまた今度)

インタビュー調査をしても、各構成員の発言を聞いても「もっとこうしようっていう意識が欲しい!!!」とかっていうなんとも無責任な発言が多い。この考えだと、その意識を持てない人間は組織にとって不必要である→淘汰という道筋を経て、全体主義的な組織の誕生という憂き目を見るだろう。それは少なくとも近代人がすることではないし、論理的な思考回路がないなら死んだ方がいい。

本当に見るべきはその意識を生めなかった組織の構造は何か?ということであって、その意識を持てない人間ではない。というかそうでもしない限り、改善が生まれるはずがないのだ。

そして、終わってみてこのことに気づいてるのは俺を含めてたぶんごく少数。幹部はゼロ。なんだこの組織。くさってんな。よくやれたと思うよ。やれたってことはあの組織は全体主義的な色合いがあったのかな。・・・そう考えたらそんな気がしてきた。



最後に三段論法で締める。

言葉(ロゴス)は論理である。(logos→logic)

言葉を使える生物は人間だけであるし、全ての人間は言葉を使える。(必要十分)

∴全ての人間は論理的であるし、論理的でないのは人間ではない。



キョウハマジメデスネ

*1:詳しくはまた今度ね。